第四回白金今昔物語 柏原工務店柏原幹史さんです<前編> 2018.8.8
白金に長く暮らし、
“今の白金””昔の白金”を語っていただく
インタビュー企画
第四回白金今昔物語
オリンピック選手を25人も輩出したチーム柏原
スピードスケートショートトラックのコーチ、監督を務め、
有限会社柏原工務店を経営する柏原幹史さん<前編>です
1.柏原工務店は創業90年、古川橋の架け替えの仕事で白金に。
家族のように職人さん達と暮らしていた幼少時代、
当時、最先端の設備のあるおうちは、
近所の人に電話やお風呂を貸したり、テレビを一緒に見ていた。
2.魚藍坂近くにあった”今井スケート靴店”がきっかけでスピードスケートをはじめ
高校生の時に全日本選手権優勝。国際大会に出場。
コーチ転向後は、近所の教え子がオリンピック選手に。
白金で練習するチーム柏原は、オリンピックへの登竜門といわれるほどに。
柏原幹史(かしわばらみきひと)さん
プロフィール
生年月日:1949年12月16日 (69歳)
三光小学校、早稲田実業中高校
有限会社柏原工務店
今回は以前、取材させていただいた白金理容かわむらの店主河村さんのご紹介で、
柏原工務店の柏原幹史(かしわばらみきひと)さんを取材させて頂きました☆
ということで、今回は河村さん、柏原さんのお二方にお話しを伺いました!!
柏原幹史さん
こうちゃん(河村弘一さん)が出た時に、白金新聞って初めて聞きました。
白金新聞
出来てまだ二年目ですからね。しかもマイペースでやらせてもらっているので(汗)
柏原幹史さん
こうちゃんから記事に出るから見てよって言われてね(笑)
白金新聞
河村さんには朝日中学校の同窓会の際にお声をかけていただきまして。
柏原幹史さん
朝日なんだ!!俺は朝日じゃないんだよ。あいつ(柏原さんの奥さん)は朝日。
みんな三光小学校の卒業生!!
柏原さん(奥さま)
三光で朝日なんです。
柏原幹史さん
うちのお袋も三光小なの。それでお袋と習った先生が一緒なの。
白金新聞
えー!!
柏原幹史さん
先生が初めて学校に来た時にお袋が習って、
やめる寸前で俺が小学校1,2年生のときに習ったの松藤先生。
河村弘一さん
国語、習字の先生ね。
白金新聞
先生もびっくりされたんじゃないですか?
柏原幹史さん
びっくりしてたみたいね。親子を教えたんだから。
河村弘一さん
私が三光小学校の45回生だから、柏原さんは53か54回生だよ。
柏原幹史さん
俺わかんない(笑)
白金新聞
今建っている校舎の前の前ですか?
河村弘一さん
そうそう。
柏原幹史さん
鉄筋コンクリートの白い校舎だったね。
河村弘一さん
我々のときはね、空襲避けに校舎がまだらな色になってた。
柏原幹史さん
それはわからないな。
白金新聞
迷彩柄のような?
河村弘一さん
そうそう。上からB29が白い校舎に見えないように迷彩にしてたわけだよ。
白金新聞
柏原さんは白金で工務店を開かれてどれくらいでしょうか?
柏原幹史さん
うちは90年くらいかな。あそこの(柏原さんの奥さん)の実家は300年以上かな
300年・・・300年!?
柏原幹史さん
聞いた話では徳川家康が三河から出てきた時に一緒に出てきたそうだよ。
柏原さん(奥さま)
という話ですよ(笑)
白金が野原しかない頃からいるみたいですからね。
白金新聞
柏原さんはなぜ白金にいらしたんでしょうか?
柏原幹史さん
私のおじいさんが、古川橋の架け替えに来たんだよ。昭和の初めか大正時代にね。
もともとは多摩川の方にいたらしいんだけど。
架け替えで白金一丁目あたりに住み着いたわけ。
河村弘一さん
元一丁目ね。
柏原幹史さん
そうそう、元一丁目ね。
昔の白金志田町って、こうちゃんの町内会にいれてもらってたの(笑)
白金新聞
河村さんとは長いお付き合いなんですね!!
柏原幹史さん
生まれたときからこうちゃんのところでで散髪してるよ。
生まれて私のお袋が河村さんに連れて行ったらしくて、それからずっと。
一本橋の古川橋
白金新聞
今の古川橋は何代目の橋になるんですか?
柏原幹史さん
あそこの橋は3、4回架け替えてるんじゃないかな?
河村弘一さん
私が16歳頃の85、6歳のおじいさんは、そのおじいさんが地方から上京したとき、
古川橋は一本棒の橋だったって。だからそーっと歩いて渡る橋だって言ってたよ。
柏原幹史さん
それで昭和の初めくらいに、ちゃんとした車の通れる橋にしたんだって。
河村弘一さん
そのおじいさんが言うには、当時は古川で鮎が取れたんだって。
鮎!?
白金新聞
古川橋に鮎が・・・
柏原幹史さん
そうだって聞くよね。古川で泳いだって聞いたよ。
白金新聞
今でこそ古川もかなりキレイになりましたし、
20年くらい前は結構な汚れ具合でしたよね。
河村弘一さん
メッキ屋さんが多かったからね。
柏原幹史さん
そうそう。この辺は職人と町工場の街だから。
それで橋の架替できて、そこに住み着いたんですよ。
白金の高級マンションならぬ高級長屋
柏原幹史さん
私が生まれた頃の家は長屋だったの。借りてたんだけどね。
白金新聞
長屋!!よく時代劇で見るやつですね!!
柏原幹史さん
そうそう。五軒長屋って言ってね。
お袋の話では戦争の空襲で、
火事で住んでた長屋辺りも燃えたんですよ。
白金新聞
えー!!
長屋だと火事ですぐに燃え移りそうですよね・・・
柏原幹史さん
お袋はそのまま燃やしちゃえば新しい家に住めたって言うんだけど、
おじいさんが火を消しちゃったらしいのね。
だからうちの長屋は燃えずに残っちゃったんだよね。
白金新聞
やはり工務店をされていると、消火方法もよくご存知なんですかね?
柏原幹史さん
そうそう。鳶と土建屋やってるから、職人をたくさん引き連れて消しちゃったんだよね。
河村弘一さん
それであそこは残ってたんだ。
白金新聞
その五軒長屋のうちの一つの部屋はどれくらいの広さなんでしょうか?
柏原幹史さん
結構広いですよ。平屋じゃなくて二階も使えるから。
河村弘一さん
長屋ってのはね、昔から九尺二軒って言って長さが九尺で奥行きが二軒。それが標準的な長屋。
小さい頃はたくさんあったからね。
柏原幹史さん
間口が二軒くらいで奥行きが五軒くらいあってね。
だから結構広いんですよ。
わからないでしょ?(笑)
二軒っていうと3600ミリ、3.6メートルだね。
五軒っていうと9メートルくらいだね。
それの2階建て。
白金新聞
なるほど、結構広いんですね。
柏原幹史さん
その長屋を何軒か借りてて、そこに職人も住んでるの。
多いときは20何人も寝てたらしいんだよね。
白金新聞
えええええええ!!
登山の山小屋みたいですね(笑)
柏原幹史さん
俺が子供の頃は近所の人がお風呂を貸してくれって言うんだから。
もちろんお風呂も近代的なやつじゃなくて、木でできたお風呂でガス釜があって。
薪じゃないんだよ。
白金新聞
ガスはプロパンガスでタンクが置いてある形ですか?
柏原幹史さん
あ、いや、都市ガス。この辺は早かったんですよ。
簡易水洗って言って、便所も水洗だったの。
白金新聞
高級長屋ですね!!(笑)
柏原幹史さん
流しで使った水が裏にある貯水槽に行ってそこに溜まった水を使ってたの。
白金新聞
ボットン便所かと思ってました(汗)
柏原幹史さん
この辺はそういう設備の導入が早かったの。ペダルを踏むと水が流れるのよ。
お風呂はコンクリを打ってある土間に置いてあるだけで
スノコがおいてあって、その上で洗うの。
浴室というより一つの部屋にきのお風呂が置いてあって、
そこにお釜が付いてて。
家族のような職人さんたち
河村弘一さん
あの頃の職人さんは住み込みでやってたからね。
みんな住み込みで働いてるから食事もつくってあげなきゃいけないし、
お風呂もやってあげなきゃいけないし。
柏原幹史さん
特にご飯はお腹いっぱい食べさせてたからね。
河村弘一さん
今みたいにプライバシーなんて無いんだから。
柏原幹史さん
多いときは20何人も寝てたらしいんだよね。
河村弘一さん
昔は6畳に10人寝るなんてザラだったんだよ。
1人1畳もあれば寝られるからね。
畳1枚で。そこに10人位雑魚寝するわけよ。
だから、気持ちは家族みたいなもんなんだよね。
白金新聞
面倒見るのが当たり前だったんですね。
柏原幹史さん
そうだよね、人を雇ってるからね。
白金にも街頭テレビ!!
白金新聞
何がきっかけでお店が忙しくなったとかあります?
柏原幹史さん
子供の頃だったから覚えてないけど、東京オリンピックが契機だったと思うよ。
あの辺からスゴイ変わってきたよね。テレビが自分の家に入ってきたりさ。
それまでは、子供の頃に三田の方にある松坂公園にテレビを見に行った記憶があるよ。
甘味屋さんにあんみつを食べに行ってテレビを見たり。
河村弘一さん
あとはお蕎麦屋さんにおそば食べに行って、テレビを見たりね。
白金新聞
公園にある街頭テレビって大きさはどれくらいなんですか?
柏原幹史さん
今で言う14インチくらいじゃないの?上の方に街頭テレビがあってさ。
河村弘一さん
遠くから見てたんだから。
あのころのテレビって電子レンジくらいの大きさだよ。
柏原幹史さん
そうだね、だから14インチくらいだよね。蓋が閉まってね。
河村弘一さん
ブラウン管だけど。
柏原幹史さん
そういえば街頭テレビでターザン(映画)を見た記憶があるよ。
白金新聞
歴史の教科書で見ましたが、街頭テレビで
力道山の試合の放映とかあったみたいですね。
柏原幹史さん
そうそう、そういう時代。力道山とかね。
河村弘一さん
遠くから見てたんだから。
空に五輪の輪!!
柏原幹史さん
そういう時代があって、東京オリンピックを契機に劇的に変わっていったよね。
その頃からこの辺にも道ができたりさ。
河村弘一さん
今のアクサ生命の前の道だよ。
白金新聞
あー!!
柏原幹史さん
今ある大きな通りは新しい道なんだよ。
河村弘一さん
昔は古川橋から清正公までの道は真っ直ぐじゃなかったの。
柏原幹史さん
昔はあの道は無かった。
あの道は東京オリンピックの後にできたの。
だから昔のメインの通りは、魚らん坂から古川橋の方に抜ける道があるでしょ。
柏原さん(奥さま)
私は東京オリンピックの五輪の輪を庭から見てますよ。
柏原幹史さん
俺は五輪の輪を物干しの隙間からから見てたよ(笑)
白金新聞
あのぅ・・・五輪の輪を見るとは・・・?
柏原幹史さん
オリンピック開会式の時、国立競技場の真上で自衛隊の戦闘機が五輪の輪を描いたの。
その時にテレビ見てて、物干しを見たら空に五輪の輪を戦闘機が描いてたんだよ。
柏原さん(奥さま)
その様子をテレビでやっていて、もしかしたら見えるかもしれない!!
って出たら本当にビューっとね。
河村弘一さん
でもあのときは天気も良くて風も吹いてなかったんだよね。
柏原幹史さん
そう。だから、みんなこの辺の人は見てたんですよね。
白金新聞
本当に思い出ですよね。
柏原幹史さん
思い出の東京オリンピック!!今回のオリンピックで東京で2回も見られるからね。
河村弘一さん
ラッキーだよね。
柏原幹史さん
かみさんのお父さんから聞いたんだけど、
魚らん坂の下に剛力っていうのがいたの。
白金新聞
剛力・・・?(彩芽かな・・・)
※強力とも云う
柏原幹史さん
剛力ってのはね、当時は車がないから
リヤカーのもっと古い大八車で坂を登るときに、
お金を払ってダイハチ車を押してくる人がいたの。
河村弘一さん
俺も聞いたことある。坂の下には必ずそういう人がいたって。
そういう人はそうやって日銭を稼ぐわけ。家族を養うためにね。
白金新聞
当時は馬車とかも走っていたんでしょうか?
河村弘一さん
戦後しばらくは馬車はうちの前の通りで走ってたね。
柏原幹史さん
昔、都電が走ってたじゃない。
子供の頃に花電車って言ってさ、都電が飾るんだよね。
河村弘一さん
例えば戦で勝ったときとか天皇の誕生日とか、
おめでたい日に箱のない電車に飾るわけだよ。
白金新聞
ラッピングバスの祖先みたいなものですね。
河村弘一さん
電飾をいろいろ付けたりしてね。
柏原幹史さん
それは昭和30年位までかな。
河村弘一さん
お祝い事とかさ、戦に勝ったときとかね。花電車が出るよってみんな見に行ったんだよ。
今で言うテレビなんて無いんだからさ。
今日の何時から花電車が走れって聞くと、みんなで行こう行こうってなるんだよ。
白金新聞
最近の白金ってどう思われますか?
柏原幹史さん
昔の良さがなくなってきてるけど、それも仕方のないことなのかと。
戦後からの変わり方もスゴイから、再開発にしても時代の流れかなって。
河村弘一さん
一番大きいインパクトは白金高輪駅ができたことだね。
柏原幹史さん
あれは大きいですよね。劇的に変わりましたよね。
白金新聞
劇的にですか。
柏原幹史さん
だって昔は陸の孤島って言われてたんだから。
夜遅くなるとタクシーしか無いんだもん。バスも終わってさ。
だから昔、六本木に遊びに行ってよく歩いて帰ってきてたもん。
近いとタクシーも乗っけてくれないからさ。
遠くばっかりのお客さんばっかり乗せるからさ。
しょうがない、歩いて帰ってたよ。
白金新聞
酔い覚ましにもちょうどいい距離かもしれませんね(笑)
ということで、たくさん白金に関する今昔物語を語って頂きました!!
次回<後編>では、スケート人生について。
柏原さんの指導力は、日本だけでなく、
中国、韓国の選手にも影響を与えてるんです。
乞うご期待☆