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第三回白金今昔物語 白金高輪駅前、白金タワー1階にある理容室かわむら店主河村弘一さんです<前編>

白金に長く暮らし、
“今の白金””昔の白金”を語っていただく
インタビュー企画

第三回白金今昔物語
白金高輪駅前、白金タワー1階にある
理容室かわむら店主河村弘一さんです

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1.幼少時代、渋谷を眺めると東横デパートの明かりが見えたという
戦後焼け野原だった白金。”想像できないでしょ?”

2.創業1899年(明治32年)家業を継いだのが1950年、理容師歴60年以上、
新旧世代を繋ぐ交流拠点であり、仲良し家族で営む理容室。

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プロフィール
河村弘一(かわむらこういち)さん
:プロフィール
白金理容かわむら
創業明治32年 1899年
家業を継いだのが1960年
白金プラザ会副会長
東映フライヤーズの大ファン(現、北海道日本ハムファイターズ)

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生まれは昭和16年6月19日、77歳
白金新聞
生まれも育ちも白金ですか?

河村弘一さん
正確に言えば渋谷区広尾病院で生まれした。

白金新聞
その頃から広尾病院はあったんですね!!

河村弘一さん
昔の建物だけどね。その頃は産婆さんで生まれる人も多かったみたいだけどね。
実は私、双子だったのよ。それが理由かわからないけど、
おふくろは広尾病院で産んだんだよね。

白金新聞
えー!!そうなんですか!!

河村弘一さん
生まれは昭和16年6月19日。私には私によーく似た双子の弟がいるんですよ。
街でどうしても間違えられるらしくて、
街で知ってる人に会うでしょ、笑いかけなければ弟なんだって。
ニコッとしたら私なんだよね(笑)怪訝な顔をしたら弟ってこと(笑)

白金新聞
なかなかの判別方法ですね(笑)

河村弘一さん
私と友人でも顔を見て笑わなければ弟だってこと(笑)

白金新聞
なるほど(笑)

河村弘一さん
いや、中学校を卒業したときから道が別れて、弟は工業が好きだったんだよね。
だから工業関係の方へ進んでいったんだよ。

白金新聞
弟さんのほうが真面目ですか?

河村弘一さん

そんなことないよ、お互いスポーツマンだったしね。主には野球だけどね。
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三光小学校のアルバム

白金から渋谷東横デパートがみえた

白金新聞
学校はどちらに通われていたんですか??

河村弘一さん
三光小学校です。昭和23年に三光小学校に入って。
(卒業アルバムか何かを持ってきて)

河村弘一さん
なんで二冊あるかって言うとね、私と弟の分。

白金新聞
なるほど!!この頃は1クラスの人数が多いですね!!
今は生徒の人数が少ないですからね。

河村弘一さん
そうね、60人近くいたね。
先生が少なくて、生徒が多いっていう時代だったからさ。

白金新聞
このあたりだと、どの辺で遊んでいたんですか??

河村弘一さん
一面焼け野原だったから、どこでも遊べるわけだよ。

白金新聞
何もなかったんですか!?

河村弘一さん
何も残ってない。信じられないかもしれないけど、
この場所から渋谷の方を見ると、
夕方にチラチラっと東横デパートの明かりが見えるの。
途中にあるのが広尾病院の建物と北里研究所のトンガリ屋根だけだったの。
あとは全部焼け野原だったの。
それもたぶん、2、3年で見えなくなったんじゃないかな。
焼け野原にどんどん家が建ってきたから。

白金新聞
今の駅前からだと想像できませんね・・・

河村弘一さん
くず鉄とかクズガラスが売れるんだよ。子どもたちみんなで拾って売って、
ゴムの柔らかいボールを買ってみんなで野球をしたんだよ。
焼けた鉄だとかトタン屋根だとかガラスの破片とかいっぱい落ちてるの。
それを拾って、買取業者に持っていくとボールを買うくらいのお金になってさ。

白金新聞
信じられないですね!!

河村弘一さん
信じられないかもしれないけどさ(笑)
だから今でもモノを大事にするっていうかさ、
みんなで苦労してボールを買ったんです。
小学校低学年の頃。昭和22、3年の頃じゃないかな。

白金新聞
その頃は工場はあまりなかったんですか?

河村弘一さん
あったけれども、焼け残った工場くらいだね。
工場にいる人は軍隊から帰ってきて復員っていうのかな。
そういう格好をした人が多かったよ。

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戦後、着るものがなくて軍服を着ている

白金新聞
しんじ・・・られないっすね、本当に。
(卒業アルバムらしきものを見ながら)

河村弘一さん
これは、浜離宮に遠足に行ったの。この用務員の方が軍服みたいのを着ているでしょう。
みんな戦争から帰ってきて、着るものがないから、こういうものを着ているわけ。

白金新聞
え〜!!そうなんですか!!

河村弘一さん
そういう人が先生やってたり、学校の仕事をしてたり、
街にもいっぱいいたからさ。工場の人とか商店の人とか。

河村弘一さん
こういうのをみると、すごく貧しいって感じがするでしょ。

白金新聞
確かにそうですね・・・

河村弘一さん
でもね、楽しかったよ。

広島先生って言って、いい先生だった
・・・広島八重先生っていって、1年から6年まで習った。

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白金新聞
結構ご記憶に残られているんですね。
この時代から遠足に行ったら写真を撮ろうってなるんですね。

河村弘一さん
写真館はね、今の大五の隣に小川写真館っていうのがあって
そこのおやじさんがずっとくっついていたからね。
遠足の写真は必ず撮ってくれた。

白金新聞
その頃のカメラとかかなり貴重なのでは?

河村弘一さん
三脚のついたちゃんとしたやつで、昔のカメラだったけど、よく撮れているよね。
フラッシュなんてあれだよ、マグネシウムを焚いたんだから。

白金新聞
マグネシウム・・・?

河村弘一さん
こういうところに粉のマグネシウムを置いて、それをカチッとやるとバッと光って、
その時にシャッターを押すわけ。

白金新聞
何かが燃えるということですか?

河村弘一さん
そう、光が爆発するような感じ。マグネシウムが今のフラッシュの代わり。
そういう時代だからさ。今の人はこういうフラッシュは見たことないでしょ。

白金新聞
はい、見たことないです!!

河村弘一さん
すごかったよ。すごいというか、一瞬ギョッとする(笑)
当時はフラッシュがないんだから。当然ストロボもないし。
昔の人しかマグネシウムの発光は見たことないと思うよ。

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東京から食料を買いに埼玉へ

白金新聞
親父もお袋も苦労しただろうって書いてありますね。
(写真横に手書きの文)

河村弘一さん
そうだね。まず食べることが第一だったからさ。

白金新聞
この辺りで食べ物を手に入れるのは難しかったんですか?

河村弘一さん
そうだね、戦後しばらくは、さつまいもばっかり食べていたからさ。
でも、さつまいもを食べて生きていられたからまだ良いんだよね。

白金新聞
近くにさつまいもが採れる畑もあったんですか?

河村弘一さん
畑があるんじゃなくて、さつもいもを買い出しに行くんだよ。
近所の人と一緒に埼玉県とか茨城県とか、千葉県とか。

白金新聞
そんな遠くまで行くんですか!!

河村弘一さん
そうだよ、汽車に乗って。それで農家の人のところに行って
なけなしの晴れ着だとか、着るものと交換してもらうんだよ。
そういうものを持っていかないと、
当時のお百姓さんは売ってくれなかったからね。
それでときたま、お米を買ってきたりして
それで生き延びたんだよね。
配給だけじゃ足らなかったみたいだから。
配給って言葉も知らないだろうけどさ。

白金新聞
私は広島出身なので、小学校の頃に”はだしのゲン”で、、
漫画や学校の授業で戦後の状況を学びましたが
東京でもそんなことになっていたとは・・・

河村弘一さん
東京じゃ食料を生産してないからね。

白金新聞
そうですよね。わざわざ買いに行かないといけないんですもんね。
物々交換であったりとか。

河村弘一さん
やっと買うことができて、東京に帰ったらみんな喜ぶだろうなって。
それで田町とか品川に経済警察って人がいるの。
闇物資を買ったら犯罪になるから、
買ってきたものをみんな取り上げちゃうわけ。

白金新聞
それだけ食料は貴重だったわけですね。

河村弘一さん
小さい頃に肉を食べた記憶ないもん。

白金新聞
その頃は東京で魚は捕れていたんでしょうか?

河村弘一さん
もちろん東京でも捕れたから売りには来てたよね。
天秤担いだり自転車に乗ってね。
アサリだとかハマグリを売りに来るんだよね自転車で。
それが目覚まし代わりっていうかね。
「アサリ〜シジミよ〜♪アサリハマグリシジミよ〜♪」って

白金新聞
ほんとですか!!(笑)

河村弘一さん
それが目覚まし時計代わりだったんだから。
多分、浦安の方から自転車で来てたと思う。

白金新聞
出だしからスゴイお話しのオンパレードです!!(笑)
白金はそんなところだったんですね!!

河村弘一さん
そうだよ〜。

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河村さんの記憶力は凄い!


白金新聞

今は駅前に大きなマンションやらビルやらが建ってますけども。
河村さんは、記憶が鮮明に残ってらっしゃるんですね。

河村弘一さん
周りからも記憶力は良いっって言われるよ。
でも歌の思い出とかは強烈な思い出だったんだと思うよ。

白金新聞
他の地元の方々は、外に仕事に出る方が多かったんですか??

河村弘一さん
朝日中を出ると三分の二が就職する時代なんだから。
それだけ経済が大変だったんだよ。
経済が全然発展してないから、中学出て、四分の三かもしれないな。
そのまま就職するわけ。高校行けるのが羨ましい。
ましてや大学なんてね。
だからね、私の友達の親父さんが、その友達が町工場に就職したときに、
毎月6000円の給料を持ってきてくれてありがたいって言ってたのを覚えてるよ。

白金新聞
6000円・・・

河村弘一さん
中学出の初任給が6000円だったの。

白金新聞
考えられない・・・中学卒業にすぐに就職、初任給が6000円の時代で、
一食いくら分くらいの食費がかかるものなんですか?

河村弘一さん
10〜30円の間じゃないかな。もりそば。
かけそばが15円とかだったのは覚えてるからさ。
もちろん肉なんて食べないから、とんかつなんて夢のまた夢だよ。
さつまいもと、お米も今みたいに美味しいお米じゃなかったし。
進駐軍って聞いたことある?

白金新聞
いえ、わかりません。

河村弘一さん
戦争に負けたから、アメリカ軍が進駐しに来るわけよ。

白金新聞
そのあたりに常にいるってことですか?

河村弘一さん
アメリカ軍の兵隊がそこらじゅうにたくさんいたわけ。

白金新聞
料理人の本で読んだことがあるんですが、
戦後に日比谷の帝国ホテルにアメリカ軍が
暮らしていて食事を作ったなど本で読んだことがあります。

河村弘一さん
帝国ホテルとかはそうかもしれないね。
有名でいいホテルはみんな接収されちゃうからね。
有無を言わさず俺たちが使うってなっちゃうからね。

白金新聞
戦争に負けたから・・・
そういう時代もあったんですね。
そういう意味じゃ、たくましいですね(笑)

河村弘一さん
たくましくならざるを得ないよ(笑)

白金新聞
昔の苦労もあるし、白金の変化もずっと見てきているんですもんね。

河村弘一さん
ありがたいことに、何を食べても美味しく感じられるよ。しかも健康でね。

白金新聞
昔のことを忘れていないってことですもんね。

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食料が貴重な時代

河村弘一さん
全然忘れてないね。決して贅沢なものはいらないんだよね。
むしろ、健康食を今は求めているね。
子供のときは兵隊さんが帰ってきて職がないのか、
ナイフで雑草を切って口にしてる人を見たことがあるよ。
子供ながらに気の毒だなって思ったよ。
あの人はその後、どうしたのかなって思ってさ。
有名な話なんだけど、闇物資を買わずに配給のものだけを食べたっていう
検事だか弁護士さんがいたんだよね。
その人が餓死したって話が新聞に載ってことがあったよ。
決して法律違反はしないって言って
配給のものしか食べなかったんだって。
結局、栄養失調になっちゃったんだって。

白金新聞
配給のものだけで栄養失調!?

河村弘一さん
その人は公の仕事をしてるから、ルールに準じたんじゃないかな。
決して闇の者は食べないっていうさ。有名な話だよ。
考えは立派だけど、家族は大変だったと思うね。

白金新聞
国は配給をして国民を食べさせようとしているが、
それだけでは餓死してしまうってことですよね?

河村弘一さん
そうそう。

白金新聞
取り上げた新聞も真実を訴えようとしていてすごいですよね!!

河村弘一さん
そうだよね。だから、そういう時代の人だから、なにを食べても美味しいんだよ。
だからね、いまでも大五のとんかつは夢のまた夢だよ(笑)

白金新聞
またまたーご冗談を(笑)
最近の人を見ると贅沢過ぎと感じるのではないですか?

河村弘一さん
早くして病気をするんじゃないかなって思うよ。
和食が流行ってるのは、そういう意味もあるんじゃないかな。
日本人は肉ばっかり食べたら必ず病気になるんじゃないかな。
背が大きくなって体は大きくなるかもしれないけどね。

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職業を選ぶ時代ではなかった

白金新聞
中学校卒業後はどうされたのですか?

河村弘一さん
私は長男として育てられてから、小さい頃からここ(理容室)を
継ぐものと思っていたわけ。
こういう道じゃないと家が大変だと思う時代だからさ。
だから、選ぶとかそういう時代じゃなかったんだよね。

白金新聞
そういう意味では、かなりのベテランですね!!

河村弘一さん
仕事だけは60年やってるからね(笑)15、6歳からやってるんだから(笑)
私達の時代は仕事が好きとか嫌いではなくて、食べていくためにするものだからね。
選べない人もたくさんいたと思うよ。

白金新聞
と、いうことは理容師歴60年!!人間国宝ですね(笑)

河村弘一さん
そうだよ〜(笑)

白金新聞
その頃は理容室ってどれくらい存在していたんですか?

河村弘一さん
ものすごく多くて、今の三倍くらいはあったんじゃないかな。
お風呂やは5倍10倍くらいあったんじゃないかな。
散髪屋とお風呂屋はたくさんあった。当時はお家にお風呂がないからね。

白金新聞
散髪屋が多いのは意外ですね。
みなさん、頻繁に切るんですか??

河村弘一さん
あの頃は、男はみんな散髪屋に行くから。
今でこそ美容室に行ったりする人もいるけど。
当時は月に2,3回行ってたから、みんな短いよ。
テレビドラマ観てると、髪型が気になるよね

白金新聞
なるほど(笑)

河村弘一さん
当時はあんな髪してないよってね(笑)

白金新聞
この時代にこの髪型はおかしいってことがわかるんですね(笑)

河村弘一さん
あれはないよなぁっていつも思ってる
そんなこと 言っても仕方ないから、笑ってみてるんだけどね(笑)

白金新聞
白金にもたくさん床屋さんはあったんですか?

河村弘一さん
街だけでも10軒20軒あったよ。
そうそう。道路に出れば一軒あったし、
街角曲がれば一軒あったんだから。

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やはり白金と言えば工場

白金新聞
当時は、他にお店は何がありました?

河村弘一さん
八百屋、肉屋、魚屋とか。でも、この町で多かったのは工場だったからね。
鋳物ってわかる?

白金新聞
わかりません(汗)

河村弘一さん
鋳物屋(いものや)さんも多かったよ。例えばね、水道の蛇口があるでしょ。
作る時に方に銅とか鉄を流し込んで作るわけだ。そういうのを作ってるんだよ。
お芋作ってるわけじゃないよ?(笑)

白金新聞
まさか(笑)

河村弘一さん
それからバルブ工場、挽きもの(ネジ)工場なんかもあったね。
子供の時からそういうのを見て育ってるから、
どういう風にして出来るかが分かるわけよ。
あとかまぼこ屋さんも一軒あったね。魚藍の方にね。その並びにね、
白金演芸館っていうのもあったんだから。
寅さんにでてくるような旅芸人さんが色んな所を回っているようなね。

白金新聞
映画館もあったっていう話を聞いたことがあるんですが。

河村弘一さん
映画館は白金高輪駅近くのトモズの左隣りあたりだよ。

白金新聞
映画館とは別に存在していたわけですね。
白金演芸館は劇場のような感じだったんですか?

河村弘一さん
モルタルづくりで畳の上で座って見るわけ。
真ん中に板作りの花道があって、地方で見る演芸館と一緒よ。
そこでね、広沢虎造っていう有名な浪花節の浪曲家が、
もともとはこの街で旋盤工をやっていたらしいんだけど、
白金演芸館で浪曲を見て、自分にも出来ると思ったんだね。
それでその道に入って、日本一の超有名な人になったんだよね。

白金新聞
そんな方が白金にいたとは!!

河村弘一さん
旋盤の工場も白金には多かったからね。

白金新聞
白金出身のスゴイ方なんですね!!

河村弘一さん
白金出身ではないみたいだけどね。

白金新聞
そうなんですか(汗)聞いた話なんですが、
工場がたくさんあるので地方から出稼ぎに来る人も多くいたとか?

河村弘一さん
住み込みの工員さんはいっぱいいたよ。昭和30年前後の頃からね。街が変わるまでは。

白金新聞
田舎から出てきたら、その後輩も田舎からでてくるサイクルのような?

河村弘一さん
そういうのもあったんじゃない。うちの会社入ったら良いぞ!みたいなね。

白金新聞
ソーラン節の歌手の方で、紅白にも出場したことのある方が、
白金魚藍坂あたりの工場に住み込みで務めていたと聞きました。

河村弘一さん
うちのお店にも来たかもしれないね(笑)

白金新聞
そうかもしれませんね!!(笑)

河村弘一さん
映画館の名前は魚藍京映ね。

白金新聞
本当に記憶力がすごいんですね〜!!

河村弘一さん
外の世界に行かなかったからね。
きっと神様がおまえはここに残れと言ったんだと思うよ(笑)

白金新聞
なるほど(笑)
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人と人を繋ぎたい

河村弘一さん
小学校とか中学校の同級生が近くに来るとお店に必ず寄ってくれるんだよ。
河村さんがまだ残ってくれてて嬉しいなってね。
それでお茶を飲んだり昔話をしたりさ。それがとても嬉しくてね。
残っててよかったなと思うよ。中学校の担任の先生でさえ、まだ来てくれるんだよ。
髪を切りに来てくれるからさ。

白金新聞
みんなから愛されてる証ですね!!記憶の答え合わせもできますし!!(笑)
さすが副会長、白金のことならなんでも語れますね!!

河村弘一さん
古い人と新しい人を繋ぐ役割はあると思うんだよ。
古くから白金に住んでいる人と、
新しく白金にやってきた人を繋ぐ役割があると自分では思ってる。

白金新聞
新しく来た人にも優しいですもんね。

河村弘一さん
だから、町工場の下町的なところだから、
さっぱりした江戸っ子のような人がたくさんいるよ。
寅さんみたいに極端じゃないけど、そういうタイプの人がたくさんいたんだから。
当時はまだ江戸弁っていうのがあったんだから。

白金新聞
江戸弁なんてあったんですか!?

河村弘一さん
例えばね「まっすぐ」のことを江戸弁だと「まっつぐ」って言うんだよ。
あとは「クワガタ」のことを「サイカチ」って言うんだから。
もしかしたらこの辺の方言なのかもしれないけどね。
「カブトムシ」のことは「カブトムシ」っていうんだけどね(笑)

白金新聞
そこは変わらずなんですね(笑)

河村弘一さん
だから、「コーヒー」をこの辺の人が言うと
「コーシー」になっちゃうんだよ。
「ひゃくえん(100円)」じゃなくて
「しゃくえん」そういう言葉づかいをする人がたくさんいたよ。
江戸弁の下町の言葉なんじゃないかなと思うんだけどね。
そういうさっぱりした人がたくさんいたよ。
職人さんとかが多かったから、稼いだお金は
その日のうちに使っちゃう人も多かったよ。

白金新聞
えー!!

河村弘一さん
「おい坊主、給料もらったから五反田に連れて行ってやるぞ」とかね。
「給料全部使ったって来月からたくさん仕事はあるんだからよ」って言ってね。
そういうお客さんもいたよ。みんな工場の人だったけどね。

白金新聞
五反田で何をして遊ぶんですか?

河村弘一さん
美味しいもの食べにとかパチンコとかに連れて行ってくれたよ。

白金新聞
あー!!当時から五反田は有楽街だったんですね!!

河村弘一さん
そうだよ。この辺の工場のおじさんたちはみんな行ったよ。

白金新聞
今も昔も変わらないかもしれませんね(笑)

河村弘一さん
その頃は工場の全盛期だから、お金もたくさん入ってきたんじゃないかな。
昭和40年前後かな。40年にかけてくらいかな。

白金新聞
この辺に工場があって、白金2丁目の方は当時からお屋敷が多かったんですか?

河村弘一さん
高台になっているところはお屋敷だね。戦後は都の職員さんが住むところになったね。
昭和20年の空襲までは伊達屋敷っていうお屋敷が並んでたね。
昭和20年の5月くらいの空襲でお屋敷が焼け落ちるのを見たって人がいたよ。
B29の空襲でね。それで私を親が慌てて水戸の郊外に疎開させたんだよ。
お袋の実家が水戸だったからさ。
半年くらいいたら、完璧に水戸弁に慣れてたよ(笑)
帰ってきたら田舎っぺになちゃったって笑われたよ(笑)

白金新聞
半年いただけで(笑)

河村弘一さん
子供だから吸収が早くてあっという間に水戸弁になってたよ。

白金新聞
河村さんの世代だと疎開や空襲を経験されてる世代なんですね。

河村弘一さん
他にもぼくより年齢が上の人もいると思うけど、忘れちゃってる人も多いんじゃないかな。
ぼくは水戸の郊外から東京大空襲をみた貴重な人間だと思うよ。

白金新聞
え!!水戸から東京大空襲が見えたんですか!?

河村弘一さん
見えたよ、東京の空が真っ赤になるんだから。
3月9日の夜中の12時ころだったんじゃないかな。
寒かったのを覚えてるよ。中でキラッキラって光るんだよ。
あとでわかったんだけど、B29のジュラルミンの機体が光ってたの。
あの晩に10万人もなくなったんだからね・・・
広島も原爆が落ちて大変な被害にあったけど、
東京の大空襲も大変だったんだよ・・・
明くる日、東京大空襲で出た燃えカスが水戸の方まで落ちてくるんだよね。
一晩かけてね。半分焼けたお札が落ちてきてさ。

白金新聞
空が赤くなるって・・・

河村弘一さん
そうだよ、東京の空が真っ赤になるんだから。
水戸だって東京から100キロくらいしか離れてないからさ。

白金新聞
もしかしたら巻き込まれていた可能性もあったわけですもんね・・・

河村弘一さん
ぼくたちは疎開していたからね。
下町の墨田区や台東区にいたら完全に巻き込まれていたね。

白金新聞
下町のほうが被害が大きかったんですか?

河村弘一さん
下町のほうが一番酷かったよ。川に飛び込んで溺れたりさ。
10万人も亡くなったんだよ。

白金新聞
10万人も・・・

河村弘一さん
だから、東京大空襲とは日にちが違ったけど、渋谷まで見えたりするんだよ。
とにかく、木造の家を建てて、住むこと食べることを最優先だったよ。
今で言うと、火事の焼け跡が一面にあるわけだよね。

白金新聞
考えられないですね。

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河村弘一さん

それが昭和20~30年くらいまでの白金の姿だよね。

白金新聞
そのあとに白金が変わったと感じたことはありますか?

河村弘一さん
経済成長をして、東京タワーを作るときは、下の方を作るときから見てるからまさに
映画の三丁目の夕日と同じだよ(笑)毎月高くなって行くのが分かるんだよ。
ここから見えたからね。

白金新聞
遮る建物もまだ建っていませんからね。

河村弘一さん
子供の時に驚いたのはね、アメリカ映画の総天然色映画(カラー映画)を見たときだね。
それまでは映画は白黒のものだと思っていたから。

白金新聞
カラー映画のことを総天然色映画って言うんですね!!

河村弘一さん
映画の中でさ、ケーキを顔にバンとぶつけるんだよ。
そしたら隣にいたお袋がなんてもったいないことするのって言うんだよ(笑)

白金新聞
白金が発展してきた経緯は、工場ができて出稼ぎの方々がやってきてからってことですよね?

河村弘一さん
そうだね、映画館みたいな施設もできたしね。

白金新聞
娯楽施設ですもんね。四の橋、五の橋商店街が人でいっぱいになるくらい
賑やかだったとききました。

河村弘一さん
そうだよ。魚藍もすごかったんだから。
(写真を持ってきて)

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河村弘一さん
これが昔のうちのお店なんだけどね。

白金新聞
えー!!すごいっすね!!シブいですね!!

河村弘一さん
シブいでしょ!!
うちの親父はハンサムだったんだよ。

白金新聞
すごいおしゃれですよね!!

河村弘一さん
(笑)

白金新聞
女性もワンピースだったり、スカートも
おしゃれさんグループですね!!

河村弘一さん
これはうちの娘だよ。

白金新聞
えー!!そうなんですか!!

河村弘一さん
かわいかったんだよね〜
この写真はあそこの茶色いビルがバックだったんだよ。
それは氷川神社。

次回、<後編>貴重な白金の写真と河村さんの記憶は、
まだまだ、たっぷりあります


理容室 かわむら

定休日 毎週月曜・第3火曜
営業時間 9時〜19時
住所 港区白金1-17-1 白金タワー1階
電話番号 03-3442-6705

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