第五回白金今昔物語 戦前、戦後の白金を知る折原榮一さんです<後編> 2018.12.24
白金に長く暮らし、
“今の白金””昔の白金”を語っていただく
インタビュー企画
第五回白金今昔物語
戦前、戦後の白金を知る折原榮一さんです<後編>です
戦前、戦後の白金を語っていただいた<前編>はこちら
1.折原電機製作所と自宅は、昭和21年の建築物
2.戦前、戦後で180度考え方が変わる。
教育制度の変換期を過ごした学生時代
折原榮一(おりはらえいいち)さん
プロフィール
生年月日:1949年 (87歳)
白金志田町生まれ
三光小学校、
折原電機製作所
白金1丁目西部地区再開発理事長
今回は以前、取材させていただいた白金理容かわむらの店主河村さんのご紹介で、
折原電機製作所の折原榮一(おりはらえいいち)さんを取材させて頂きました☆
男の仕事場
折原榮一さん
僕は昭和28年学校出てからずっと親父の仕事を手伝うようになって。
白金新聞
同級生とか、いるんですか?
この辺り住んでる人は、空襲後、疎開から戻ってきたり。
折原榮一さん
そうそう。
白金新聞
台湾の方を雇っていたと聞きましたが。
折原榮一さん
昔、台湾は日本の植民地で
(非常に興味深い戦争の歴史のお話が続く)
アヘン戦争があって。
(非常に興味深い戦争の歴史のお話が続く)
白金新聞
貴重なお話ですね。
学校の先生と思うくらいの知識です。
折原榮一さん
日本に来て働きましょうということで
国の奨励ですよね。
白金新聞
奨励というとどのくらいのことをいうのでしょうか。
出稼ぎみたいなことですか?
折原榮一さん
働いて生活しないといけないから。
う~ん…働ける者は日本で働けと。
半強制か、強制になるのかな。
僕らから見ると過去には日本でもそういう出来事があったと。
白金新聞
考えさせられますね。
折原榮一さん
過去-現在-未来ていうけど
過去のことは書物を読むことが必要かな。
白金新聞
折原さんは戦争を体験しているし、
歴史の勉強もされているんですね。
台湾人労働者
折原榮一さん
で、台湾から来た呉哲輝(ゴ・テッキ)さん働いてくれました。
日本名が松田。
白金新聞
日本名ですか?
折原榮一さん
うちで働いている間に、兵隊が足りなくて
呉哲輝(ゴ・テッキ)さん軍人に取られて。
で、戦争が終わって帰って来たのですが。
白金新聞
ほぉ~日本で働いて、軍人にもされて。
折原榮一さん
戦争が終わると状況が180度変わったから
そのまま台湾に帰ることに。
白金新聞
ほぉ~もう日本で働かなくて良いと
折原榮一さん
立場が変わるんですよ。
白金新聞
今でも、台湾と日本は仲良くしていますよね。
折原榮一さん
台湾は、人が良いね。
島で苦労してるし。
今でも親切にやってくれるし。
白金新聞
素晴らしいです。
折原榮一さん
台湾から呉さんの紹介で
日本へ行ったら折原さんのところへって。
東京案内したり。
白金新聞
良い関係ですね
白金について
白金新聞
白金についてもお聞きしたいのですが。
折原榮一さん
白金は寺が多いよね。
大久保寺とか。
白金新聞
大久保彦左衛門ですね
折原榮一さん
魚藍坂近くにある
四十七士知ってる?
白金新聞
(折原さんを前に)
知ってるとまでの自信はないですが…
折原榮一さん
国文学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)
討ち入りのお裁きをどうしたらいいのか、
話し合ったのが荻生徂徠と新井白石(あらいはくせき)
白金新聞
どんどん歴史のお話が出て来ますね!笑
折原榮一さん
さわやか信金の前に碑がたってるよ。
お墓がありますよ。
折原電機製作所のお仕事
白金新聞
昔は工場が沢山あったと聞きましたが。
折原榮一さん
隣近所はみんな工場。
白金新聞
無くなっていくきっかけがあったのでしょうか?
折原榮一さん
親工場が地方に分散したからね。
廃業した工場もありましたね。
白金新聞
今でも生き残っているには何か理由があるのでしょうか。
折原榮一さん
うちは特殊なのやってたから笑
白金新聞
電機製作所の仕事と言いますと?
折原榮一さん
鉄道関係、最初僕がやったのは都電です。
都電の電源関係。
白金新聞
都電といえば路面電車ですか?
折原榮一さん
それから今度は国鉄、今はJR。
東海道全線、電化させようと。
白金新聞
電化ですか?
折原榮一さん
はじめて東京ー大阪間を
全部電化させるタイミングで
それが昭和33年だったかな。
それから
この前オリンピックあったじゃない。
白金新聞
この前?笑
(折原さんにとっては??笑)
折原榮一さん
40年前だったか笑
その時に今の新幹線を少々お手伝い。
電気設備ですけどね。
白金新聞
いやいや、凄いですよ。
当時、最先端のテクノロジーじゃないですか。
折原榮一さん
そうそう(普通に)
折原榮一さん
あとは船舶!
船の仕事。
発電機の補修ですね。
船はディーゼル発電機何ですけど
24時間365日ずっと使っているから
部品があちこち痛むんですよ。
それを修理、アフターケアをしたわけですよ。
白金新聞
お父さんのから技術を習ってですか?
折原榮一さん
自分で。
白金新聞
え??
ちょっと待ってください。
折原さん凄くないですか。
折原榮一さん
お客さんと相談しながら
手伝ってもらったり。
この辺だと鹿島の臨海工場地帯。
船がつくと修理に行って
木更津、横浜、名古屋、大阪の堺、岡山の敷島だったかな
三菱造船にも行きましたよ。
白金新聞
ちょっと整理させてください笑
折原榮一さん
貨物船が荷物積んで港に入って来るわけですよ。
修理するのは、
昼間、荷物をおろすから
終わってから8時9時から夜通し作業。
停泊料が高いから、用が済むと朝すぐ出ていくんですよ笑
日本の船だけではなく、外国の船もやりましたね。
スペインの船とか。
スペインの船だと私はエレキサー(技術者)。
そうすると待遇が違うんです。
食事が普通の船員と違うんです。
キャプテンは奥さん同伴で、
みんなが座っているところ
奥さんがナイフとフォークを持って
食事をはじめると、我々、僕たちも食事ができる笑
世の中、随分文化がひらけてるというけど
やっぱ階級制度が外国にあるんだな〜
つくづく思いました。
日本は戦争で辛い思いしてたから
日本人は早く受け入れたんじゃないですかね。
若い人には外国行くチャンスがあったら
3日でも5日でも行って、
日本の見方が変わって来るから経験してほしいね。
白金新聞
スペインの人と交流して感じたんですね。
海外文化を感じる
白金新聞
他に技術者としてのお仕事は?
折原榮一さん
あとは自動車工場の電気設備。
特に日産ですけど。
電気設備は結局接触してたりアークが飛ぶだりなんかして
痛むじゃないですか。
だからそれを新しく作って取り替える。
発電機なんかリングが回ってるんですよ。
カーボンで擦れてリングが痛むからそれを削って
またよく使えるようにするとか。
白金新聞
超技術者!!
いろんなことをやっていますね。
技術者の人生も凄いですね!!!
折原榮一さん
もういいです。
もう散々やったのでもういいです笑
折原榮一さん
今だに何かって僕の所に相談は来るんですけど
手伝える間は、たまにくらいですけど…
経験だけはあるけども。
白金新聞
はい…
(もしかして博士クラスですか)
折原榮一さん
余談になるけど
仕事は、若い人が積極的に覚えるようになってくれたらいいなって思いますね。
人のやっていることを盗んでも覚えろ。
親方がやってることを、教えてくれないから
見て覚えてそれを自分の腕で実践する、
今何でもオートマチックになってるけど
コンピューターで。
確かに良いものはできるし、楽にはなっているけど
自分で考えてやって欲しいですね。
白金新聞
重みがありますね
これからの白金について
白金新聞
折原さんはこの辺りの一帯の開発、
理事長をされてますよね?
折原榮一さん
はい、一応理事長をやらせてもらっています。
白金新聞
長く住んでいて歴史にも詳しいから笑
折原榮一さん
80何年ここ住んでるし、多くの人、この辺界隈の知ってる顔馴染みだから
話が凄くしやすいし、色々意見があるだろうけど。
白金新聞
この辺りもだいぶ変わりそうですね。
折原榮一さん
まだだいぶ先ですけど笑
いろいろ思いがありますから。
一応2025年を目標にしています。
白金新聞
また、別記事で特集したいと思っています!!
折原榮一さん
僕の友達も、この間
“40何年マンションに住んでいるけど
右も左も住んでる人の顔も知らないだよ”
でもね、災害や緊急事態が生じた場合には
お互いに助け合わないと、
僕は生活ができないんじゃないかと。
白金新聞
おっしゃるおとりだと思います。
近所とのお付き合い
折原榮一さん
神戸の震災の話で、
隣近所で付き合いがあって助かったって話が非常に多いと。
私は孤独な生活がしたいから周りは関係ないからじゃ済まされないと思いますね。
だって朝起きて一日過ごすのにどれだけの人に手助けしてもらって生活しているか
極端な話だけど、朝から晩までいろんな人にお世話になっているのに
ワガママはいえないよね。
白金新聞
今年、広島の災害地に行って感じました。
現地では、やっぱり近所の人や、親戚で助け合いをしていましたから。
折原榮一さん
でもね、地方で起きていることが、
そのまま都会で通用するかは不安な所なんですけど
新しい人もいるし、昔からいる人もいるし、
僕は、融合して欲しいと思っています
白金新聞
街並みも変わりましたし。
折原榮一さん
時代の移り変わりもあるし、
やってみないとわからないからね。
けどね、この辺りは街全体がちょっと遅れているよな気がします。
それが良いのか悪いのか将来性がない気がして。
白金新聞
人が来やすい、集まりやすい場所ではないですよね。
折原榮一さん
昔、五の橋、四の橋通りは賑わいがあったからね。
もっとお祭りやイベントがあって良いと
やり方で良くなるかなーと思っています。
だから2025年ですよ笑
白金新聞
楽しみにしています!!
<後編>では、折原電機製作所のお仕事、
これからの白金を語って頂きました!!
ありがとうございました。
今回、工場萌えな素敵な写真がたくさん撮れたので
記事に載せきれなかった分は
instagram白金新聞アカウントで公開します