白金新聞は東京白金の粋な情報を発信するWEBマガジンです。

第七回白金今昔物語伊藤常郎さんです

白金に長く暮らし、
“今の白金””昔の白金”を語っていただく
インタビュー企画

第七回白金今昔物語
戦後、東京に2.3軒
しかなかった釣具屋のひとつ。
所在地は高輪1-1-1。
店主の伊藤さんは、熱心な中日ファンであり記録魔。
釣りクラブの大会結果と中日の試合結果を書き続けること40年
白金理容かわむらの店主河村さんのご紹介


1.戦争が始まりみんなが疎開する中、母とふたり白金に残り商売を続けたつり具竜雲。
戦後、趣味と実益を兼ねた釣具屋は行列ができるほど繁盛することに。

2.すべて手書きの記録。高校の時に始めた竜雲釣クラブの大会記録、港区釣魚連合会、東京都釣魚連合会、さらに熱心なファンである中日ドラゴンズの試合記録まで合計4紙の会報を手がける。

伊藤常郎(いとうつねお)さん(87歳)
プロフィール
生年月日
昭和7年1932年6月生まれ
三光小学校
城南中学校

白金新聞20190831釣具竜雲012

名古屋生まれ白金育ち

白金新聞
まずは、生年月日お聞きしていいですか?

伊藤常郎さん
昭和7年1932年6月生まれ87歳です。

白金新聞
87歳!?お元気ですね!!
出身は白金ですか?

伊藤常郎さん

私は名古屋生まれで、小学校1年の時に東京に住む実母の姉、
伯母に養子にもらわれてきました。
小学校1年の時に最初は滝野川区西ヶ原で、
今は桜の名所の北区飛鳥山のそばです。
養父が港区で機械屋さんをやってたから、
小学校2年の時に引っ越してきて三光小学校へ行きました。

家の場所は古川橋近く、昔の地名でいうと白金志田町。
当時、親父が機械屋をやってたんだけど、
お袋と離婚しちゃって。
これ(小指)の問題で。

白金新聞
大人の事情ですね(笑)

白金新聞20190831釣具竜雲05

家を出ていった親父の言葉

伊藤常郎さん
親父が釣り好きで、俺は出て行くけど
“釣り道具屋でもやれや”って出て行っちゃったんですよ。
だから、私とお袋とふたりっきりになっちゃって
お袋が借金して釣具屋を始めたんです。

白金新聞
え!?ちょっと待ってください!!
出ていく親父さんの残した一言で釣具屋を始めたのですか?

伊藤常郎さん
ええ、問屋さんの指導を受けながら。
釣りなんて全然わからないまはま始めたから
お袋は苦労したと思いますよ。
私はまだ小学校2年終わりくらいで
お袋はひとりで借金の山で
わけもわからず釣具屋をはじめて。

白金新聞
それは大変ですね。

伊藤常郎さん
私は子供の頃から店を手伝わされたというか
小学校低学年から、おつかいに行かされたり苦労があったんですよ。

当時の子供は、塾だなんだってないでしょ。
学校が終わったらランドセル放り投げて遊びに行くのが普通でね。

白金新聞
子供は遊ぶのが仕事と言いますから…辛いですね…

白金新聞20190831釣具竜雲08

たくさんの釣り道具

戦前からある竜雲

伊藤常郎さん
子供の頃に遊べないという重圧が大変でしたよ。
隙をみては溜まり場で遊んでると
お袋に見つかって襟首掴んで戻って来いって
そういう時代でした。
それが戦争中の話です。
だから、釣り具屋を始めたのは昭和15年戦前ですよ。

白金新聞
戦争前からあるお店なんですね。

伊藤常郎さん
商売をはじめた頃は、釣りのつの字もわからないで。
お袋はお客さんに教えてもらいながらはじめて、
お客さんが”テグスください”っていわれても
“テグスってなんですか?”って(笑)

白金新聞
テグスを知る前にはじめてしまったわけですね(笑)

伊藤常郎さん
釣具屋を始めた翌年、太平洋戦争(昭和16年~)がはじまり、
だんだん一年経ち二年経つと空襲はあるし
昭和17、18年なると情勢があやしくなって
同業者がみんな疎開することになりました。

それでもお袋が、実家に帰ることはできないから
ここで焼け死んでもいいと、残って頑張ったんですよ。
だから、逆にいうと
商売としてはいい方向にいったわけです。

白金新聞
いい方向とは?

伊藤常郎さん
同業者が疎開するときに
リアカーにいっぱいに釣具を持ってきて
買ってくれって、うちに云ってくるわけですよ。

置いといても焼けちゃうかもわかんないからって
二束三文でいただいて
それが商売にとっては有利に働いたわけです。

白金新聞
同業者は東京からいなくなるし、
疎開する釣具屋から
安く仕入れることができたってことですね。

伊藤常郎さん
当時、戦争中におおっぴらに釣りだってゆうと
非国民といわれて、
短い竿を内ポケットにいれて内緒で釣りに行く時代だったんです。

白金新聞
なぜ?非国民なんですか?

伊藤常郎さん
それは、兵隊さんや将校さんが戦争の最前線にいるのに
申し訳ない、娯楽をしてはいけない時代で。

白金新聞
確かに!命をかけて最前線にいるわけですからね。

伊藤常郎さん
とはいえ、戦争中は決していい商売ではなかったです。

白金新聞
戦争中は食べ物に困るほどの時代と聞きました。

白金新聞20190831釣具竜雲045

戦後、東京に釣具屋は2.3軒しかなかった

伊藤常郎さん
みんな疎開していたので
釣道具屋が東京に2、3軒しかなかったんですよ。
終戦になったらはるばる遠くからうちに買いに来てね。

白金新聞
東京に2、3軒のうちのひとつが竜雲さんですか?

伊藤常郎さん
そう。
みんな戦争で焼けちゃったりして
釣具の問屋さん、メーカーさんも道具がなくて
とくにメーカーさんは戦争中、一時軍需産業に切り替わってましたから。
戦後、通常営業に切り替えても、すぐに品物が出回らなくて。

白金新聞
戦後、すぐには普通の生活に戻れないですよね。

伊藤常郎さん
うちには、疎開した店から買い取った品物が沢山あったから
どこにも釣り道具屋がないからって
わざわざ都外からも買いに来る人もいました。

当時は、タバコが配給制で
タバコ屋にはよく行列ができたんですが、
うちの釣具屋にも同じくらいの行列ができるくらい賑わいました。

白金新聞
釣具屋に行列は、現代では考えられないですね。

白金新聞20190831釣具竜雲06

趣味と実益を兼ねた釣りがブームに

伊藤常郎さん
終戦後、釣りといえば
魚は釣って食べれるし、趣味と実益を兼ねてまして
一気に釣り人が増えたわけ。
急にお店が忙しくなってきました。

当時私は、中学1年かな。
その頃になるとお店でかなり役立ってたから。

白金新聞
小学2年生から働いてますからベテランですね。

伊藤常郎さん
お袋とねじり鉢巻で商売続けて、
当時、食糧難ですから
昭和20年代まで凄い賑わいましたよ。
東京に釣具屋もあっちこっち増えましたね。

あの当時はね
安売りもなくてこっちのつけた定価でバンバン売れて儲かったわけです。
釣り具屋の黄金時代です(昭和20年代、30年代)

白金新聞
命かけて白金に残ったわけですから
当然といえば当然のような気がします。

伊藤常郎さん
今はゲームとか趣味が沢山あるでしょ。
当時の趣味といえば、
お金持ちはゴルフ、庶民は釣り、
あとはラジオで野球を聴くくらいでしたから。

白金新聞
釣り人口が多かった時代なんですね。

白金新聞20190831釣具竜雲021

70年間中日ドラゴンズファン!

伊藤常郎さん
そろそろあれだよ本題(野球)になるけど
終戦後、プロ野球が再開されたわけですよ。

戦前にプロ野球あったんですけど
職業野球とゆって、戦前の野球団体としては巨人軍が最初だったですよね。
アメリカから大リーグがきて沢村が投げてなんて。
※1934年日米野球 1-0で日本が負けたが善戦が話題に

戦争中は、いい選手は兵隊にとられて
何人か有名選手が死んでるけど。

昭和21年だったかな。
プロ野球が再開されたのが中学生の頃、
当時日本は、野球に関心が高まっていました。
8チームくらいあったんだけど
巨人、阪神、東急フライヤーズ、南海、阪急・・・
その中に中部日本軍があったんです。

友達は江戸っ子が多かったから巨人ファン。
私は、名古屋で生まれたから中部日本だ!

その後、中部日本軍からチーム名が
中日ドラゴンズになって70年間も中日ファン!

白金新聞
ええ!?もしかして中日ファン歴かなり長いのでは?

伊藤常郎さん
終戦直後からのファンだから長いですよ(笑)
当時は、明大から中日へ入ってきたフォークボールの元祖杉下茂
天知監督坪内道典西沢道夫選手が活躍していました。

河村さん
なんとその中の魚藍坂にスター選手の西沢がいたんだよね?

伊藤常郎さん
そうなんですよ
ピーコックの反対側角にね、
木造の二階建てのボロ屋にいたんだけど
活躍しだしてすぐ、いい住まいに移ったけど笑

白金新聞20190831釣具竜雲023
白金新聞
野球が好きになったきっかけは何でしょう?

伊藤常郎さん
終戦後は、ゲームもないし子供はボール投げとかしてました。
中学から草野球をやってましたし、
今みたいにサッカーをやる子供なんて全然いなかったですから。

白金新聞
プロサッカーなんてない時代ですね。

伊藤常郎さん
昔はテレビがなかったからラジオで実況を聞いていたの。
東京だから巨人の放送が多いけど、中日に関する放送は少なくて。
唯一、東海ラジオがやっていたんです。
それがね優秀なラジオだとちゃんと音声を聴くことができるけど、
普通のラジオだと”ガーガー”ってかすかに入るんですよ。
それを聞きながら育ちました。

白金新聞
ローカルな放送局は、
聴き取りにくかったと。

伊藤常郎さん
小学校は三光小学校
過去に麻布十番の奥にね城南中学校というのがあったんですよ
麻布十番の坂を上って高台にあった学校なんです

河村さん
年代が違うとね社会が全然違う話が聞けるから貴重だよね。

伊藤常郎さん
あの当時都電しかないから、
午後から学校サボって後楽園に野球を観に行った事が何回もありました。

河村さん
白山行きの2番の電車
芝公園から日比谷で乗り換えてそしたら水道橋通るから。

伊藤常郎さん
河村さんは詳しいね!よく憶えてる!!
俺と10いくつ違うのに詳しいね。


ガーガーピーピーいうラジオ聴いたり、学校サボって後楽園球場に行ったり
当時は青田昇とか大下弘とか川上哲治とか藤村富美男もいたり大スターがいたんですよ。
中でも記憶に残っているのは、水原茂さんが戦後シベリアから帰ってきたとき
中折帽でグランドを1周して挨拶したの憶えていますね。

河村さん
みんな大スターだよベーゴマやメンコに出るんだもん。

伊藤常郎さん
学校に通ってる間、お袋は1人で商売やってたわけなんです。
私が、野球に熱中するのは、これからなんだけど(笑)
商売が忙しくてね。
1日朝から野球見物は滅多に行けなくて。

白金新聞
戦後からずっと商売が順調というわけですね。

伊藤常郎さん
そうです。
お袋としては養子としてもらった手前、
息子は大学まで行かす!と決意を持ってたんだけど
お袋が喘息持ちで体がだんだん弱ってきてね。
中学に入って試験なしでそのまま高校に居座っちゃったんですけど、
あの当時は、大学に行く友達も結構いたんです。
でもお袋が具合が悪くなったんで、頼むから商売を継いでくれって言われたんです。
それで大学を断念して釣具屋を継ぎました。
本当は大学で遊びたかったんだけど(笑)

白金新聞
小学生の時から遊べなかったですから(笑)

白金新聞20190831釣具竜雲041

竜雲釣クラブが発足

伊藤常郎さん
お袋も身体が弱ったとはいえ、時々顔出して働きましたよ。
そのうち、お客さん同士で釣りクラブ作ろうじゃないかって。
頻繁にきてたお客さんを会長にして竜雲釣クラブができ
これが大きな団体になったんです。
白金新聞
釣り人口が多い時代ですか??

伊藤常郎さん
私はまだ高校出たばっかりで世話を焼くって言うほどまではできなかったんです。
会長さんの弁当持ちじゃないけど、釣りの大会があると会長の後にぴったりくっついて、
終わってからの順位を記録したりノウハウを勉強したんですよ。
それでその頃から釣りクラブの会報を出してね。
お前も会報の勉強しろって手伝わされて。

白金新聞
それが、手書き会報のはじまりですか??

伊藤常郎さん
私も高校生あたりから文字を書くのが好きでね。
昭和30年代から書いてたんですよ。

白金新聞20190831釣具竜雲040

河村さん
この頃はガリ版でやったんですかね

伊藤常郎さん
そうそう、そうなんですよ!
この当時は、油紙に書いてガリ版ですよ
今みたいにコピー機なんてないから。

河村さん
伊藤さんの字はクセがないから見やすいですね。

伊藤常郎さん
大会の得点や総合点とか
毎回の成績を書いて、次は何がありますよってお知らせも。

白金新聞
ここに、”釜飯の店移転しました”って書いてあります(笑)
みんなで行ってたんですね。

河村さん
伊藤さんは一生ものを書くのが苦にならない人なんだよね。

白金新聞20190831釣具竜雲042
伊藤常郎さん

昭和29年に年に1回出す、総決算特集号を書きましたよ。
毎月大会の優勝は誰だって書いてたんですよ。
大会の出席数、優勝数、入賞数とか
それを種目別(フナ、ヤマベ、ハゼ、シロギス等)に分類して
一覧表にするわけです。

河村さん
マメだよね。

白金新聞
本当、マメですね~

伊藤常郎さん
何十年も年間の総決算特集号を書いているんです。
現時点でもね平成時代になると見やすく整理されてますけど、
準備して感想文を書いたり、何の釣りをやって誰が優勝して、
1年に1回でもまとめるの大変なんです。

白金新聞
大変だと思います。

伊藤常郎さん
最近老齢化で少なくなってきてますが
港区に釣り団体が多い時は10団体以上あったんですよ。
竜雲釣クラブもまとめて港区の釣魚連合会(ちょうぎょれんごうかい)

とにかく港区の大会の成績種目別にカワハギならカワハギだけの成績、
これを私が全部書いてみんなに配るんです。

それだけじゃなくて、
東京23区まとめて150人から200人集まる大会で、
東京都釣魚連合会の成績まで書いてやってるんですよ。
ハゼは港区強くてね。

白金新聞
その大きな大会も全部書いてるんですか??

白金新聞20190831釣具竜雲036
伊藤常郎さん

竜雲の大会、港区の大会、東京都の大会、
すべて記録は私がやってます

白金新聞
釣り業界で、伊藤さんはかなり偉大な気がするんですが!!

河村さん
釣り業界だと知らない人はいないんじゃないかなぁ。

白金新聞20190831釣具竜雲06

昭和50年、ビルが完成

伊藤常郎さん
中日の前に回り道しちゃったけど、
私が小学校1年で名古屋で生まれて滝野川に出てきました。
小学校2年生から古川橋の志田町63番地に越して
道路の拡張で立ち退きを食って家の真ん前で仮営業所をやっていました。
隣の乾物屋の村中さんのお兄さんが持ってる土地が
売りに出ていて、更地だったんですよ。

お袋が目の前の空き地なんて
めったにないから無理してでも買えっていうことで
昭和48年に買ったんですよ。
ビルが完成したのは昭和50年。

昔の繁盛した蓄えと道路拡張の保証とか合わせて
この土地を買い4階建てのビルを作ったわけです。

いろいろねぇ自分のお金も多少あるけど
いろいろ奔走してこのビルが何とかできました。
いろいろ大変だったんですよ
昭和時代、釣具はまだまだ売れたので
借金も無事返し終わりまして現在に至っております

白金新聞
すごいですね!!
では、釣りが衰退したのはいつ頃からですか??

伊藤常郎さん
平成2、3年はバブル時代ですね。
その頃はなんだかんだよかったけどバブルがはじけて
徐々に衰退、だから平成15年からは下り坂になってきたね。

息子さん(店番をしていた息子さんが顔を出して)
福島の原発からガクッと
みんな釣り行かなくなりましたね。
やっぱ海は怖いってイメージあるし川釣りも随分減りました。

白金新聞
そうなんですね。

伊藤常郎さん
だから徐々に衰退して20何年もジリ貧時代がついてるわけよ
何とか昔の名前で出てますけど(笑)

河村さん
娯楽が多方面ってこともあるんじゃないですか??

白金新聞20190831釣具竜雲039

伊藤常郎さん
いろんな趣味が多角化しちゃって
釣りクラブでも老齢化がどんどん進んで
60代70代は若手ですよ(笑)
おそらく私も3、4年でおそらくダメになると思うけど。

白金新聞
70代で若手ですか(笑)
伊藤さんは、まだまだお元気なんで大丈夫かと!!

伊藤常郎さん
そのうち釣りの会報を書く人がいなくなるけど
あと3年は頑張ろうと思うんですよ。

白金新聞20190831釣具竜雲033

河村さん
当時は、NHKのアナウンサー志村正順さん小西得郎さん
野球を夢中にさせてくれた名アナウンサー、名解説者で
日本中の野球ファンを夢中にさせたんだから。

伊藤常郎さん
大体野球場へ通いだしたのは息子が高校を卒業して
商売やるんだから商業へ行けってことで
都立一商を卒業して商売を手伝うようになってね。

お店は日曜日、祝日だけ休みだったけど
平日はなかなか抜けられないですよ。
数年経ってから私が抜けることになりました。

昭和48年に巨人がそれまで9年連続優勝して
中日が初めて巨人を破って優勝したんですよ。
その時の感激がとにかく仲間と大騒ぎした記憶があります。

与那嶺監督は、片言の日本語で面白かったんですよ。
巨人から移ってきた監督だから打倒巨人に燃えてたわけ。

あの頃巨人は川上監督で長嶋、王、脇役には松本って言う足が速いのがいたり(黒江、高田など)
他の脇役でもね優秀な選手が多くて。
あの頃は監督の手腕じゃなくて貧乏揺すりしてるだけで
巨人は勝てたって言う時代だったんですよ。

俺らアンチ巨人からすると憎らしくてしょうがなかった。
それをつぶしてくれたんで大騒ぎした覚えがあるんです。

伊藤常郎さん
お店が休みの日曜日に家族全員で応援に行ってて昭和57年に優勝したんですよ。
それがペナントレースの最終日までもつれにもつれて
最終日に優勝が決まった記憶に深い優勝なんですよ

監督は、近藤監督!その時は観に行きましたよ。
確か昭和48年前後からファングループと東京中日ファンクラブで+30人ぐらいのグループで、
久々の優勝もそのグループと一緒に観て大騒ぎして喜んだ覚えがあります
特に熱中してきたのが57年以降かな。

白金新聞20190831釣具竜雲022

河村さん
大騒ぎって言ってもね伊藤さんはお酒一滴も飲まないから(笑)

伊藤常郎さん
そうそう食べる専門、だから祝杯はあげれてないんです(笑)
今でも食欲は50、60歳の人並みに食べますよ。

タバコは20歳から40歳まで吸っていたのですが、
子供の時に小児喘息をやったのがあって、
歳とって苦しむなと思ったんで40歳で止めたんです。
だからそのおかげで今でも健康だと思っています。

話は戻りまして。
その後、58年から野球の記録を取るようになったんです

白金新聞20190831釣具竜雲030
白金新聞

釣りに加えて野球の記録もですか??

伊藤常郎さん
釣りも野球もです!

白金新聞
この新聞も古いですね。

伊藤常郎さん
この人知ってますか?(古い新聞記事)
北村英治って言うサックスで有名だったクラリネット奏者ねこの人も買いに来てたんです。
住まいが近くで何年か来てましたよ。

全成績書くようになったのは、
昭和59年からずっと全成績を書いて、試合結果を書いて、何対何でどこと対戦して
野球場はどこだーピッチャーは誰が投げたホームランは誰が打った
全部詳しく1年間ずっと書いていました。

これは記念号です優勝した年の記念号です。
毎年ね全試合を書いて大変なんです。

白金新聞
これは大変ですね。

伊藤常郎さん
自分で言うのもアレだけど好きなんだね釣りが。
余談だけどボーリングも年間の記録表を書いてます

白金新聞
ということは、
釣りと野球とボーリング、
同時進行の時期もありますよね?

河村さん
もはや事務局ですね(笑)
白金新聞20190831釣具竜雲024

新聞記者に記録魔と言われた男

伊藤常郎さん
前に日刊スポーツか忘れたけど記者が来て
あなたは記録魔ですねって新聞記事に書かれたことあるんですよ(笑)

白金新聞
プロ記者さんのお墨付きですか(笑)

伊藤常郎さん
これは優勝の祝賀会私が若い頃の写真ですね。
私は、ハッピ着て野球場に飛んで歩いてたんです。
30数年前は若かったよ、40代に見えるけど50代(笑)

野球の写真だけでこれだけあります(アルバムに写真がいっぱい)
いかに野球場に通ったかってのがわかると思います。

河村さん
時間も費用も相当つぎ込んだんでしょうね

伊藤常郎さん
昭和58年から全記録書いてるから40年近く全部書いています。

白金新聞
しかも4紙同時進行で書いてます

白金新聞20190831釣具竜雲020

日本全国の球場で野球観戦

伊藤常郎さん
野球観戦は、
北は北海道、南は鹿児島球場まで
日本の野球場ほとんど回ったんですよ。
北海道は札幌ドームになってますけど
円山球場、秋田、宮城、福島、新潟、長野、横浜、千葉、神宮、川崎、静岡、草薙球場、
浜松、豊橋、岐阜、ナゴヤ球場が1番懐かしいですね

川崎もよく行きましたよ
オープン戦では小さい球場まで観に行きました。
蒲郡とか豊田とか岡崎球場とかいろいろ行きましたけど、
ナゴヤ球場に結構通ったの1番懐かしいですね。

河村さん
野球にかけた時間と費用は大変なものでしょう。

伊藤常郎さん
計算すればすごいよね。
若いやつに飯奢ったり、それを計算したら大変だ(笑)

白金新聞
もはや、計算できないですね。

白金新聞20190831釣具竜雲018

若き日の伊藤さん

伊藤常郎さん
岐阜の長良川球場に行って思い出があってね。
そこの球場開きの時に行ったら、12時半頃まで試合が延長になりました。
昔は試合時間が無制限だったから、
確か延長15回までやったんじゃないかな、それで終電がなくなりますよって。
場内放送があってそれでも観てたんですよ
名古屋のホテルに荷物置きっぱなしだったんで
5、6人タクシーで名古屋まで帰ったんですよ。

大阪の日生球場、藤井寺球場、京セラドーム
後は広島もよく行きましたよ今のマツダ球場じゃなくて市民球場があって
近くの呉の球場にも行きましたね。

全国各地、地元の応援軍団と仲良くなって、あちこちの応援団長とは顔見知りで。
あとは、福岡ドーム、平和台球場、熊本球場、鹿児島と。

日本全部こういう格好していたんですよ。
そもそも会報を書き出したのは
平成14年にファンクラブと東京中日会が合併してから
それから16年経つけど会報なくちゃってなって。
じゃあ、伊藤さん頼むよ!ってなっちゃって引き受けました。
結局好きだからやりましょうって。

白金新聞20190831釣具竜雲050

東京中日会会報の顧問は講談師さん

白金新聞
こちらの顧問の方は誰ですか?
伊藤常郎さん
講談師の一龍斎貞花
この1番後ろのページ(ドラキチ貞花のドラタイムズ)

白金新聞
一龍斎貞花さんも凄い方ですね。

伊藤常郎さん
会報にはちゃんと1枚書いてくれるんです。

猛打賞は記事には書いているのですが、
スポーツ紙の記録集に載ってないんですよ。

他にも、11球団の話題、中日の話題
毎試合メモして大変なんですよ。

みんなは会報できたか、へーって
普通に見てますけど
苦心がいるんですよ(笑)

白金新聞
だって、1人で新聞スポーツ新聞作ったようなもんじゃないですか!
記者もやって編集もやって。

伊藤常郎さん
そこまでやる人間は自慢じゃないけど
なかなかいないよね。
負けが込むと筆が重くてアレなんですけど。

河村さん
こういう記録は貴重だよね。

白金新聞
ほんとすごいですね。

白金新聞20190831釣具竜雲016

魚藍坂の写真と説明文書いてます


伊藤常郎さん

他にも港区の坂道薬だけじゃなくて、
港区は東京で1番坂道が多いことを知ってますか??
100いくつの坂道を全部写真に撮っています。

白金新聞
これタモリさんがやってるやつじゃないですか!

伊藤常郎さん
これも説明すると日が暮れちゃうから(笑)

白金新聞
坂道は次回お願いします!!

白金新聞20190831釣具竜雲051

伊藤さんから戻ってきた修正記事

今回の取材を終えて白金新聞が感動したのは、
記事の下書きを伊藤さんに渡して修正が返ってきた時、
この一文が添えられていました。

“私は28歳で現在の妻雅子(当時20才)と結婚。
養母は昭和46年74才で亡くなりました。

初代店主の母は1番苦労した人で
今でも感謝して仏壇に手を合わせています”

家族愛を感じる取材になりました
ありがとうございました

東京・白金高輪 竜雲つり具店

http://ryuunturigu.web.fc2.com/
住所:東京都港区高輪1-1-1
TEL:03-3446-8826
FAX:03-3446-8827
営業時間:9:00~20:00
定休日:日曜、祝祭日

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