第五回白金今昔物語 戦前、戦後の白金を知る折原榮一さんです<前編> 2018.12.18
白金に長く暮らし、
“今の白金””昔の白金”を語っていただく
インタビュー企画
第五回白金今昔物語
戦前、戦後の白金を知る折原榮一さん<前編>です
1.折原電機製作所と自宅は、昭和21年の建築物
2.戦前、戦後で180度考え方が変わる。
教育制度の変換期を過ごした学生時代
折原榮一(おりはらえいいち)さん(87歳)
プロフィール
白金志田町生まれ
三光小学校、
折原電機製作所
白金1丁目西部地区再開発理事長
今回は以前、取材させていただいた白金理容かわむらの店主河村さんのご紹介で、
折原電機製作所の折原榮一(おりはらえいいち)さんを取材させて頂きました☆
折原榮一さん
なんか知りたいことあったら聞いていただければ
私の記憶の範囲内で回答できますんで。
白金新聞
ありがとうございます。
折原さんは生まれも育ちも白金ですか?
折原榮一さん
志田町で生まれました。今の白高(はくたか)の方
8才の時にここへきたんですね。
白金新聞
お父さんの代から電機製作所ですか?
折原榮一さん
はい、私の代になってから仕事内容は変えましたが。
白金新聞
継いだのはいつですか?
折原榮一さん
私が始めたのは昭和28年。
60何年になりますね。
白金新聞
お父さんの代も数えるとめちゃめちゃ長いですね(驚)
折原榮一さん
今でもぼちぼち繋いでますけど(笑)
折原さんの幼少時代
白金新聞
学校はどちら出身ですか?
折原榮一さん
小学校は三光小学校、
私の時代は都立十五中、今は青山高校です。
そこに1.2年いて、その後慶應中等部に移りました。
白金新聞
はい…
(心の声…?)←まだ理解していない
折原榮一さん
で、中学から大学に行ったんです
白金新聞
はい…
(心の声…高等部は?)
折原榮一さん
中学4年やって、予科1年いって大学に行ったんです
白金新聞
はい…
(????)
折原榮一さん
今、6-3-3制だけど
その当時は6-4だったんです。
中学4年あって
大学入る前に予科が1年やって大学4年トータル5年。
白金新聞
みんなそうだったんですか?
折原榮一さん
その時、学生の喧嘩の時、過度期で、
切り替わりの時期だったんでね。
当時【小学校6年-中学校4年-予科1年ー大学4年】
⇩
現在【小学校6年-中学校3年-高校3年ー大学4年】
白金新聞
あぁ〜(理解しました)
折原榮一さん
丁度切り替わる年でした
だから僕はトータルで1年得してます
白金新聞
制度が違ったんですね
ビックリしました
当時の教育制度
折原榮一さん
都立十五中というのが、都立って校名につくぐらいだから
政府の教育方針が厳しくて、ミリタリズム、軍国主義そのもので。
勉強もしたけど軍事教練やら厳しくて
僕は自由奔放な気持ちの方がよくて
時代がそうゆう時代だからそれに耐えてたんだけど。
白金新聞
今では考えられないですね
折原榮一さん
昭和20年になって戦争が終わったんですよ。
そして2年生の昭和21年に慶應に移ったんです。
慶應は福沢諭吉の教えで自由主義。
その時代みんな厳しくやってるのに
自由にやってるんじゃない!白い目もありましたけど。
白金新聞
軍国主義の教育の方が多かったんですね。
折原榮一さん
終戦を境に時代が180度変わったのもありまして。
白金新聞
考え方が変わるんですね
歴史を感じる建築物
折原榮一さん
都立十五中は、軍人さんが学校の先生ですから
軍事教練の一環で、青山から二子玉川まで246をずっと歩いたり。
今は趣味で歩いている人はいますけど(笑)
白金新聞
ランニングとか(笑)
折原榮一さん
軍事教練で歩くのと、自分の健康や趣味でグループで歩くでは趣きが
全然違いますからね。
白金新聞
当時は、イヤイヤというか先生が怖かったですか?
折原榮一さん
怖いですよー、殴られますから。
やること遅かったりしたら殴られますよ。
僕、殴られましたもん(笑)
白金新聞
すぐ殴られんですね(笑)
折原榮一さん
上級生にあったら敬礼。
電車に乗るとき前の車両に上級生いて
後ろの車両に僕が乗って、前の車両に上級生いるな〜って
思ってたけど敬礼しなかったの。
学校の近くの駅ついて、僕…上級生に殴られて(笑)
白金新聞
敬礼しなかったら!?
折原榮一さん
今はパワハラとかいいますけど。
白金新聞
敬礼しなかったら殴られるって
先輩後輩のパワハラってレベルじゃないですね。
折原榮一さん
パワハラされて相談しに行くところもないし。
白金新聞
それが当たり前の時代なんですね
東京大空襲の白金
折原榮一さん
東京大空襲昭和20年3月10日の時にはここ(白金)にいました。
台東区のあたりが空襲にあって
ここの家がなくなったのは5月24日。
家が焼けたんですよ。
うちの工場で千葉県の方から来た17,18歳くらいの若者2人が
宿舎に住みこみで働いてたんですけど
僕ら家族は、いずれ家が焼かれることになるから
二子玉川にも家を借りていて。
24日の空襲でうちの工場と宿舎が焼けて、若者が住まうところなくなったから
近くに家が焼けていない知り合いがいるから住まわせてもらっていて。
四の橋と明治通りの交差点、
その若者二人が自転車で坂を下っていたところに
焼夷弾が落ちて来て即死。
白金新聞
この辺りが焼けて、近くの交差点に焼夷弾が落ちる
知り合いが亡くなる…
折原榮一さん
ただ過去にそういうこともあったと思っていただければ。
家が焼けてもすぐ仕事を再開
折原榮一さん
昭和20年はまだ戦争が続いてましたから
軍需品を作らなくては行けないから
国から親父にすぐ再開してくれ!といわれて。
火災保険を入っていたけど、火災保険はおりない、
それでも再開を急げ。
白金新聞
国からの支援はないんですか?
折原榮一さん
ないない、ありませんよ。
でも急いで再建。
白金新聞
火災保険払わないし、再建しろですか?
凄い時代ですね。
折原榮一さん
無理が通ったんですよ。
協力しないと非国民だから。
白金新聞
凄い…生きて行くのも大変なのに。
生活するだけでも大変なのに工場を再開
折原榮一さん
これはその時代の余談になるんですけど
車持っている人のところに
月に一度僅かな量なんだけどガソリンの配給があって
酒好きのおじさんが、その配給になったガソリン飲んですよ。
なんとなくアルコールが欲しくなって
お医者さんが持ってる消毒用のアルコールにブドウ糖を入れて飲んでたり。
白金新聞
ほぉ~(まだ理解していない)
折原榮一さん
いまは若い人は、ビールやハイボールやなんだありますけどね(笑)
白金新聞
お酒好きな人は、どうにかしてでも飲みたいてことでしたか(笑)
折原榮一さん
そういう生活を大人の人は体験してますよ。
白金新聞
凄い時代です!
折原榮一さん
この家が建ったのが昭和21年。
そのまま70年以上建っているんです。
建築に心ある人にその当時にしては
良い資材でできてるといわれましたよ
白金新聞
いまでも現役で頑丈ですね
<前編>では、戦前戦後の白金に関する今昔物語を語って頂きました!!
次回<後編>では、戦後台湾人の方を雇用した電機製作所物語、電車や船の電機設備のお仕事に関わった技術者の顔。
今後再開発が進む、これからの白金、若者へのメッセージをいただきました。